2022/1/16

『もののあはれ』(ケン・リュウ) 表題作「もののあはれ」は日本語と日本人についての物語。「日本語は、重層的な言葉であり、語られぬことばが語られることばとおなじように深い意味を持ち、文脈のなかに文脈が潜み、まるで日本刀の鋼のように層が重なりあう言語である」と、父から主人公に語られる。 恋人が書いた歌詞を主人公は「ワレワレハ、ホシノアイダニ、キャクニキテ」と訳する。「意味が邪魔になると歌詞の奥に音楽を聴くのが難しい」と、スペイン語がほとんど使えないスペイン人の恋人が語り、書かれた歌詞は、父親から主人公に語られた日本語についての言葉が、どんな言葉にでも言い得ることを思い出させる。 「もののあはれ」を、「万物は流転する」と父親は言う。終わらないものはなく、なくなるものも無い。言葉は一つのことを表せない。言葉は流転する。

2022/1/14

『新人世の「資本論」』(斉藤幸平) マルクスをコモンズの視点から読み直す仕事といっていいのか。コミューンでの使用価値に基づく生活を説いている。20世紀=アメリカという大きな物語が行き詰まった中、我々の関心はコミューンへ向かっていると思う。 近代国家を軸にした資本主義経済がいつまでも続く、という経済学は、経済を学んだことがない私には全然理解ができない。どこかで限界がくるのは誰にでもわかることだと思う。ただ、限界については経済学は扱わないようだった。 労働を貨幣で測るのは無理がある。何の根拠もないから。便宜上価値を決めるのが資本主義だろう。ただしその「便宜」もどこかで無理を来す。 しかし、コミューンの境界は何が決めるのか。境界を巡って近代国家ができ、境界を巡って資本主義は発達した。コミューンを論じるには境界の問題を解決していく必要がある。インターネットとブロックチェーンがツールの一つとして活躍はするだろう。

2022/1/10

『環りの海 竹島と尖閣 国境地域からの問い』(琉球新報/山陰中央新報)を読み終えた。 竹島、尖閣、それぞれのこと、またアジアや他国の領土を巡る衝突について、そこに住む人々への取材を通して紹介してくれる。 田中輝美さんが『人新世の「資本論」』を勧めている。(https://terumism.hatenablog.com/entry/2022/01/09/120835)なんとなく避けてたけど読んでみようと思う。 日経より:成熟国家154年目の岐路「国益」を考えて人に投資を、といったことが書いてある。「国益」という言葉へのアレルギーのために、日本の国際的な地位が下がってしまった、と、言いたいらしい。どうなんだろうか。明治維新から戦争までを通じて、近代国家としての「日本」をどのように考えるべきかを、そもそも誤ったから今に至っていると考える方が、正しい理解ではなかったのか。『環りの海』で論じる領土問題も、「国益」の問題であることは確かだが、それでは解決できていないから今でも問題なのではないか。人材の問題も、同じに思う。 『環りの海』より: 「国益を考えたとき、編入すべき土地は編入するというのが、近代国家が成立していく過程では当然のことだった。尖閣諸島と同様に無主地先占となる。当時、国際法に基づいて近代的な感覚で編入された」(下條正男拓殖大学教授) (p.87) 領土問題を抱える中で”国益”が追求され、地元漁民がしわ寄せを受ける構図は、日本海での日韓漁業交渉にも共通している。 (p.101)

2022/1/9

日記をこちらに移す。 『環りの海』を読み始めている。 尖閣諸島をめぐる対立は、台湾との対立の影響が大きいとのこと。琉球王国の領土だったと考えた方が歴史的には正しそうだが、琉球を日本が占領した時点で日本になったと考えられる点。そもそも琉球は日本の占領に抗議し、清国が琉球王国の立場を支援したという背景があるらしいこと。 竹島については「日本の領土」という主張が韓国側では「日本の侵略の歴史」に重ねられて歪曲されている面があること。 いずれの対立も、要するに近代国家の形を作る中での衝突である。近代国家の形が変わるとき、これらの問題は別の課題に変わっていくだろう。 同じく京都新聞で『鴨川ランナー』の紹介。言葉のリズムが身体に浸透してくる、とある。 8日(土) 日経 「集住」滋賀・宮城が先行 自治体の3割どまり 地方都市 再生のカギに […]